会津若松城
3月24日に訪問したが、まだ日影には雪が残っていた。
古くからこの地を治めていた蘆名氏は黒川城と称していた。
戦国末期、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼした後、領主が変遷したが、
奥州街道方面から攻めてくる敵を想定してか、二の丸、三の丸と東へ広がっているが、
市街地が北側に集積したため、北出丸を整備し「大手門」を北側に構えた。
大手門枡形
攻め込んだ敵に対し、堀越しに「伏兵廓」や「本丸帯廓」からも攻撃できる仕掛け。
太鼓門
本丸帯廓に入るための「太鼓門(枡形)」。高く堅固な石垣の上に櫓が乗っていた。
太鼓門石垣の巨石
鉄門
本丸に入る最後の門。柱に鉄を巻いて強化したという。右手は本丸御殿の跡。
廊下橋門
本丸帯廓と二の丸を結ぶ木橋。当初は屋根がかかっていたという。
古来より会津は街道の結節点で、奥州支配の要衝であった。
そのため、平城ながら虎口には堅固な石垣が立ちふさがり、守りは相当固い。
幕末、戊辰戦争では1か月間も持ちこたえ、まさに東北一の名城である。